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「斃れてのち元まる」 その1

鶴見和子著 「遺言」 の副題、「斃(たお)れてのち元(はじ)まる」。



遺言―斃れてのち元まる


序文と、1 遺言 を読む。


生きることを謳歌する、それに勝るとも劣らない、死と対峙する彼女のなかに立ち続ける「炎」のすがすがしさ。 鶴見和子のスケールの大きさを目の当たりにし、ことばに言い表せない、喜びにも似た感情がわく。  合掌。



  わたくしが辿り着きました内発的発展は、まだ完結しておりません。ひとつの社会のそれぞれの地域、地球上のそれぞれの社会に、それぞれ固有の文化がある。その異なる文化に根ざして多様な発展の仕方が、地域にも、社会にもあるのはよいことだ、というのが内発的発展論の主旨でございます。

  そうしますと、異なる文化が衝突したり、喧嘩したりすることになりますが、そこに終わらないで、深く交わることによって、生きとし生けるもの、昔生きていたものも、これから新しく生まれてくる生命(いのち)も、それぞれ異なるものは異なるままに、お互いに支えあってともに生きていくような新しい文化を創り出す道はないものか。そのための一つの方法として、曼荼羅の手法がある、ということを、わたしは南方熊楠から学びました。

(鶴見和子著 「遺言」 序 より)



(ISBN:978-4-89434-556-0)


2007-01-26

鶴見和子は、その米寿の年、去年7月に亡くなっている。

うちのばあさまは、鶴見和子より少し年上の91歳で、同じように脳溢血で半身の自由がきかず、特別養護老人ホームに去年から入居することとなった。

学識もほとんどなく並べて語るのもおこがましい。けれど、きっと、、うちのばあさまも、痛みや不自由さをかかえながら、その「生命」でもって、生きている・・・、なにかを思い、なにかを考えながら。

そうした「生けとし生きるもの」すべてに対する深い愛情のようなものを、鶴見和子の言葉から、感じざるを得ない。

うちのばあさまの、言葉にならないもの、できないことを代弁してくれているのかもしれない、とさえ思う。


2007-02-18

2月18日 午前10時35分、祖母逝去。

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